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静岡地方裁判所 平成11年(ワ)299号 判決 2000年5月15日

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一  請求

一  被告は原告甲野春子に対し、三二八二万七九〇〇円及びこれに対する平成一一年五月二六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告は原告乙野夏子及び同甲野太郎に対し、各一六四一万三九五〇円及びこれに対する平成一一年五月二六日から支払済みまで年五分の割合による各金員を支払え。

第二  事案の概要

甲野次郎は、被告の経営する静岡○○会総合病院において、下部胸部腹部大動脈置換術、分枝再建術を受け、その手術中の出血により、急性出血性心筋梗塞にて死亡したものであるが、同人の相続人である原告らは、被告に対し、診療契約に基づく説明義務の債務不履行による損害賠償請求として、甲野次郎の死亡による逸失利益二九六九万五八〇〇円、慰藉料三〇〇〇万円、弁護士費用五九六万円の合計六五六五万五八〇〇円(原告甲野春子につき三二八二万七九〇〇円、同乙野夏子及び同甲野太郎につき各一六四一万三九五〇円)及びこれに対する請求の日(本訴状送達の日)の翌日である平成一一年五月二六日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求めた。

一  前提となる事実

1  甲野次郎は昭和六二年九月、△△総合病院にて、解離性大動脈瘤と診断されたが、その後症状は落ち着き、手術することなく経過した(甲七、弁論の全趣旨)。

2  甲野次郎は昭和六三年、□□病院にて、ギランバレー症候群と診断された(甲七、弁論の全趣旨)。

3  甲野次郎は平成五年八月一五日、急性虫垂炎で被告の経営する静岡○○会総合病院に入院し、同月一六日手術を受けた。右虫垂炎手術後、同病院において甲野次郎の腹部CTがとられたところ、大動脈の再解離が疑われたことから、甲野次郎は平成五年八月一八日から同年九月二〇日まで同病院循環器科に入院し、検査・治療を受けた(争いがない)。

4  甲野次郎はこのころ、腎機能が低下し、慢性腎不全と診断され、平成五年九月二〇日から同年一〇月一日まで静岡○○会総合病院腎臓内科に入院し、また、同年一二月二四日から同月二六日の間も同病院同科に入院し、さらに、平成六年一月一〇日から同年二月一〇日まで同病院同科に入院し、CAPD(持続性腹膜灌流法)を導入した(争いがない)。

5  甲野次郎が平成六年一〇月一日前日からの腹痛を訴えて、静岡○○会総合病院腎臓内科を受診したところ、CAPDの管が曲がっている旨の診断を受け、自宅へ帰宅した(争いがない)。

6  甲野次郎は平成六年一〇月二日にも、腹痛、背部痛を訴えて、静岡○○会総合病院救命救急センターを受診し、入院することとなったが、その後の腹部CT等の検査を経た後、腹部真性大動脈瘤と診断された(争いがない)。

なお、静岡○○会総合病院の入院診療録平成六年一〇月二日欄には、同病院腎臓内科の乙川四郎医師が甲野次郎の妻である原告甲野春子に対し、甲野次郎については、腹部大動脈瘤が増大しており、破裂等を考えると危険な状態であることから、血管造影を施行し、場合によっては、大動脈置換術が必要になるが、原疾患・腎不全の合併等を考慮すれば、かなりの危険があり、持続的腹膜灌流(CAPD)から血液透析(HD)への移行が必要である旨の説明をしたなどと記載されている(乙一41頁)。

7  甲野次郎の平成六年一〇月三日撮影の腹部CT像によれば、平成五年八月一七日当時は五センチメートル×五センミメートル程度の大きさであった腹部大動脈瘤が、6.4センチメートル×7.9センチメートル程度に拡大していたことから、右大動脈瘤については破裂の危険性が極めて高い「切迫破裂」の状況にあり、極めて進行した病状に至っていることが判明した(乙一、三、証人丁野三郎の証言、弁論の全趣旨)。

8  平成六年一〇月六日血管造影を施行を経て、静岡○○会総合病院心臓血管外科丁野三郎医師は甲野次郎の大動脈瘤が右のような状況であり、かつ、破裂大動脈瘤での救命は極めて困難と考えたことから、手術の必要性があるものと判断し、同月七日、同月一八日に手術を施行することを予定し、同月一二日に丁野三郎医師から甲野次郎及びその家族に対し、病状や手術について説明することが予定された(乙一45、79頁)。

9  甲野次郎及び原告甲野春子は平成六年一〇月一三日ころ、「病気の状態や見通しなどについて説明を受け、手術(検査)の必要なことはわかりましたので承諾いたします。つきましては万全を期して手術(検査)をして戴くようお願いいたします。」との記載のある手術(特殊検査)承諾書に署名指印の上、静岡○○会総合病院長宛てに提出した(乙一114頁)。

10  丁野三郎医師は平成六年一〇月一三日午後四時二五分ころ、手術については延期することとし、神経内科の医師らと再検討の上手術をするかどうかを決めることとした(乙一87頁)。

11  丁野三郎医師は甲野次郎及び原告甲野春子に対し、平成六年一〇月二一日静岡○○会総合病院北館三階医師室において、手術を勧め、また、手術を施すとすれば、大変な手術になり、八時間程度を要すること、心臓を一旦止めて人工心肺を使用して低体温下で行うこと、足に障害が残る可能性があることを説明した(争いがない)。

なお、静岡○○会総合病院の甲野次郎の入院診療録(看護記録部分)平成六年一〇月二一日午後一時一五分の欄には、「丁野医師より妻 本人にムンテラ 手術日は一一月八日に決定……右総腸骨Aの閉塞の検討中、今回は腰痛・腹部が痛かった、手術により血液透析になる……、手術より、腎キノウは悪くなる可能性は大、感染、出血、危険率は一割、輸血……新鮮血スペンダー(A型)+が四~五人(分)ほしいか」などと記載されている(乙一91頁)。

12  静岡○○会総合病院の甲野次郎の入院診療録(看護記録部分)平成六年一一月七日午前九時三〇分の欄には、「前胸部~頚部痛かなり 軽減するもあり 明日OPEなのに、こんな状態で……と家人がしきりに訴える」などと記載されており、また、同日正午の欄には、丁野三郎医師は甲野次郎及び原告甲野春子に対し、同月五日に施行した血管撮影時のカテーテル検査により、縦隔内出血、腫脹が生じていると考えられるが、腎機能障害があり、組織の治癒力が低下しているために、約腫脹が吸収されるまでに三週間くらいかかりそうであり、また、易感染性等の問題がある可能性があり、さらに、今回の手術は人工心肺体外循環を用いる予定であり、その際に抗凝固剤ヘパリンの使用は不可避であるために、出血を起こしやすい状況であると考えられることから、手術は同年一二月六日に延期する旨説明したなどと記載されている(乙一98頁)。

13  甲野次郎はA看護婦に対し、平成六年一一月二八日外泊から帰院した際、「あとはかんおけに入るだけだ」と述べた(乙一105頁)。

14  甲野次郎はB看護婦に対し、平成六年一二月三日午後二時三〇分ころ、手術が二回も延期になっているために、また、何かあるのではないか不安であると訴えており、また、C看護婦は同月五日午後一時ころには、甲野次郎には笑顔があるものの、同人の緊張や不安をその言葉の端々より感じとった(乙一106、107頁)。

15  丁野三郎医師は平成六年一二月六日から同月七日、次のとおり、甲野次郎の下部胸部腹部大動脈置換術、分枝再建術を施した(乙一64、65頁、弁論の全趣旨)。

(平成六年一二月六日)

午後〇時一〇分 手術室入室

午後〇時二五分 麻酔導入開始

午後〇時三〇分 気管内挿管(分肺換気)気管支鏡で確認

午後一時〇〇分 皮膚消毒開始

午後一時三一分 執刀(胸腹部螺旋状切開)

午後二時二五分 横隔膜切開

午後三時二四分 下行大動脈テーピング

午後三時四二分から五三分 右大腿静脈より人工心肺用送脱血カニューレ挿入

午後三時五四分 人工心肺体外循環開始

午後四時〇四分 心嚢切開

午後四時二三分 肺動脈より右心室に脱血カニューレ挿入。人工心肺回路を接続し、脱血開始。

午後四時三〇分 サイオペンタール持続注入開始

午後四時四四分 胸部下行大動脈に人工心肺用送血カニューレ挿入。回路を接続。

午後四時四五分から五時〇〇分 体外循環による灌流冷却開始

午後五時四〇分 血液透析開始

午後五時五八分 大動脈遮断、同切開。

午後六時二〇分 人工血管による大動脈中枢側吻合

午後六時三〇分から七時二四分 腹腔動脈再建。上腸間膜動脈再建。末梢側大動脈吻合。

午後八時一五分 体温を上げていく際、術野出血あり、可及的止血。

午後八時三〇分 大動脈遮断解除

午後一〇時一〇分 新鮮凍結血漿一〇単位施行

午後一〇時三五分 濃厚血小板製剤一五単位施行

新鮮血(スペンダー血)四単位施行

午後一一時一五分 移植人工血管背側部の後腹膜剥離面より有意出血出現し、人工血管切離、出血部位の処置後、人工血管再吻合。

午後一一時五〇分 スペンダー血(生血)四単位施行

(平成六年一二月七日)

午前〇時一〇分 スペンダー血(生血)四単位施行

午前〇時五〇分 スペンダー血(生血)四単位施行

午前一時〇八分 カテコーアミン、カルシウム剤使用するも、有意心機能改善認めず。

午前一時一五分 体外循環中止

午前一時二三分 急性出血性心筋梗塞にて心停止確認

16  右手術中の出血の原因としては、播種性血管内血液凝固症候群(DIC)が考えられた(争いがない)。

17  右のような手術に伴い患者が死亡に至る可能性は、一二ないし一三パーセント程度であるとのデータが存在する(甲六、証人丁野三郎の証言、弁論の全趣旨)。

18  原告甲野春子は甲野次郎の妻であり、同乙野夏子及び同甲野太郎は甲野次郎の子である(争いがない)。

二  争点(診療契約上の説明義務違反の有無)

1  原告らの主張

丁野三郎医師は甲野次郎及び原告甲野春子に対し、手術の必要性、危険性、特に死亡の可能性について具体的に説明する診療契約上の義務を負っていたにもかかわらず、「危険率」等という不明確な言葉を用い、また、足に障害の残る可能性しか説明しなかったものであるから、診療契約上の説明義務は不完全に履行されたものに過ぎない。

2  被告の主張

丁野三郎医師は次のとおり、手術の必要性と危険性について説明しているものであり、診療契約上の説明義務に違反したものではない。

(一) 平成六年一〇月一二日

丁野三郎医師は甲野次郎及び原告甲野春子に対し、静岡○○会総合病院旧・西五階(腎臓内科病棟)にて、(1)現在の病態、(2)治療方法については黒板を用いて可及的に図示して説明し、また、(3)術後の経過について説明した。

(1) 現在の病態

今回の入院後のCT検査によれば、平成五年八月の腹部CT検査と比較して、腹部大動脈瘤径の著明な拡大が認められ、かつ、持続的な腹痛・腹部背部痛という腹部大動脈瘤に起因すると考えられる典型的症状を呈していたことから、腹部大動脈瘤の「切迫破裂」と考えられる。

腹部大動脈瘤とは、一般的には両側腎動脈派生部より末梢側から、腹部大動脈が両側総腸骨動脈に分枝するまでの末梢腹部大動脈に生じたものを指すが、甲野次郎の場合には、瘤が横隔膜部から大動脈主要分枝動脈派生部を含め、両側総腸骨動脈分岐部まで達しており、腹部大動脈瘤直上(中枢側)は、以前に発症した大動脈解離があり、大動脈病変は胸部下行大動脈から連続していることになる。

(2) 治療方法

「切迫破裂」とは、大動脈瘤がいつ破裂してもおかしくない状況であるところ、一旦腹部大動脈瘤が破裂すれば、強烈な症状を伴い命を失う可能性が極めて高く、破裂大動脈瘤に対しては緊急手術以外の治療方法は皆無であるが、その場合でも救命し得る可能性は極めて低い。

甲野次郎の場合、理論的には血圧のコントロールや鎮痛剤等による保存的療法も可能ではあるが、この方法では破裂の危険性は極めて高く、また、一般的には大動脈瘤切迫破裂の状態は絶対的手術適応とされており、さらに、甲野次郎については腹部大動脈瘤の径が一般的腹部大動脈瘤の手術適応とされている値を超えており、加えて、約一年間での径の拡大が著明であることなどから、手術的方法以外に根本的治療の方法はない。

そして、手術の具体的方法としては、①気管内挿管を伴う全身麻酔で行う、②脊髄や腹部諸臓器の保護のために人工心肺体外循環及び全身低体温法を用いる、③皮膚切開は左側胸部~左前胸腹部斜切開~腹部正中に向かう螺旋状切開とする、④腹部大動脈露出へは、腹膜外到達法(腹膜の外側を剥離し大動脈に達する方法―開腹することなく大動脈に到達しうる)にて行う、⑤下部胸部及び腹部大動脈露出後、体外循環を開始し徐々に循環冷却(一部、マットによる表面冷却)にて体温を下げ、途中、心停止となる、⑥下部胸部大動脈及び腹部大動脈を斜断し、その間で中枢側から順に手術操作を行う、⑦瘤部腹部大動脈は人工血管にて置換する、⑧有意な前脊髄動脈が発見されれば、これを再建する、腹部大動脈の主要分枝である腹腔動脈、上腸間膜動脈は再建する、腎動脈は十分血流が保たれていることが確認されれば再建するも、再建しない場合もあり得る、下腸間膜動脈は再建しない可能性が高い、⑨全血行再建術終了近くで、体外循環による復温開始、⑩手術創閉じ終了することとなる。

また、術中の腎不全対策としては、術中の腎動脈の遮断は不可避であるから、腎臓内科医師と協力して術中より血液透析等を行う予定である。

さらに、手術、周手術期に関する問題としては、①大動脈遮断まではいつでも大動脈瘤破裂の可能性がある(例えば、手術室に入室した直後に破裂することもあり得る)、②腎不全があり、組織が一般健康人に比し脆弱になっている可能性がある。③対象疾患が大動脈瘤であり、腎不全があり、加えて極めて侵襲が大きな手術とならざるをえないため、術中術後の低心拍出量症候群、DICを始め、感染等、更に多臓器不全に陥る可能性がある、④これらの対策として人工心肺体外循環に必要な血液に加え、充分な全血、FFP(新鮮凍結血漿)、濃縮血小板血漿等を予め準備しておくが、特に術中・術後出血に対する凝固因子補給の意味を含め、新鮮全血(スペンダー血)の準備が好ましい、⑤このために、同じ血液型の人を出来れば集めて欲しい、

加えて、手術の危険性としては、未だ症状持続時期であることから、手術の危険率は三〇ないし四〇パーセント以上であり、右危険が発生するということは、死亡に至る可能性が高くなるということである。

(3) 術後の経過

①手術は八、九時間かかり、②術後は北館三階重症管理室(HCU)に入室し、③約一週間はHCUに入室しているものと考えられる、④意識は順調に経過して術後二日以内に回復するものと考えられる。

手術の了解が得られる場合には、平成六年一〇月一八日を手術予定日とする。

(二) 平成六年一〇月二一日

丁野三郎医師は甲野次郎及び原告甲野春子に対し、静岡○○会総合病院北館三階医師室にて、(1)手術予定日の変更、(2)現在の病態、(3)手術方法及び(4)手術の危険性を説明したが、このうち(2)現在の病態及び(3)手術方法については黒板を用いて可及的に図示して説明した。

(1) 手術予定日の変更

平成六年一〇月九日以降腹痛・腰痛等の訴えもなく、症状・経過等から腹部大動脈瘤径の拡大等極めて危険な「切迫破裂」の進行性変化は減少していると考えられることから、準緊急的に手術を行うのではなく、ギランバレー症候群や右総腸骨動脈閉塞等の既存併発病態に対する医学的検討や手術時に必要な機材、薬剤(血液製剤等を含む)等の準備期間や病態の安定化のためもあり、手術予定日を一一月八日に延期する。

(2) 現在の病態

如何に寛解しているとはいえ、一旦「切迫破裂」状態に陥った大動脈瘤は症状が寛解していても破裂の危険性が高く、決して安心しうる状態ではなく、やはり手術適応であることに変わりはない。

その余は(一)(1)の説明と同様である。

(3) 手術方法

(一)(2)の説明と同様である。

(4) 手術の危険性

症状が寛解し、一定期間経過していることから、危険率は前回より低下しているものの、一〇パーセントを下ることはないと考えられる。危険性については、手術そのものも大きな因子であるが、感染、出血、多臓器不全等を併発する可能性は(一)(2)の説明と同様である。

第三  争点に対する判断

一  被告の診療契約上の説明義務の存否と必要とされる説明の程度

この点、前記前提となる事実15ないし17記載のとおり、本件手術については、身体的侵襲の程度が大きく、それに伴い患者が死亡に至る可能性が一二ないし一三パーセント程度とのデータが存在したものであるところ、甲野次郎らがこのようなデータについて予備知識を有していたり、このようなデータが社会常識となっていたわけではなく、しかも、緊急の救命手術を施す必要があるために説明をする時間的余裕すらないというような特段の事情が存したわけでもないのであるから、説明の内容や方法等については専門的な観点からの裁量判断に委ねられる部分が存するとしても、被告は甲野次郎らに対し、診療契約上、甲野次郎が本件手術に承諾するか否かにつき意思決定をなしうる程度には、本件手術の必要性、危険性、本件手術による死亡の可能性について説明する義務を負っていたものと解するのが相当である。

二  原告らの主張についての当裁判所の判断

1  原告らは、丁野三郎医師は甲野次郎及び原告甲野春子に対し、本件手術に際して、手術の必要性、危険性、特に死亡の可能性について具体的に説明する診療契約上の義務を負っていたにもかかわらず、「危険率」等という不明確な言葉を用い、また、足に障害が残る可能性しか説明しなかったと主張した。

2  この点、原告甲野春子の陳述書(甲七、八)及び同原告本人尋問の結果中には、丁野三郎医師は甲野次郎及び同原告に対し、平成六年一〇月一二日及び二一日には、手術方法については相当程度詳しく説明をしたが、腹部大動脈瘤については、それが存在するとは述べたものの、甲野次郎は若いから大丈夫であると述べていたものであり、いつ破裂してもおかしくない状態にあるために手術が必要であるとの説明はしておらず、手術を行うことを既定のこととして話を進めたものであり、また、手術の危険性については、それが三〇ないし四〇パーセント以上になるなどとの説明はなく、足が一割程度の可能性で不自由になるかもしれないとの説明はあったものの、死亡の可能性については一切触れず、かえって、命にかかわるようなことはないと説明した、さらに、手術によってDIC(血が止まらなくなること)、細菌感染、多臓器不全に陥るなどの説明は受けていない、そのために甲野次郎及び原告甲野春子らは本件手術が生命の危険性を伴うものであるとは理解しなかったとする供述部分が存在する。

3  しかしながら、(一)原告甲野春子本人尋問において、同原告は、甲野次郎及び同原告が被告に勤務する看護婦らから、手術しなければ大動脈瘤が破裂する可能性が高いという話を聞いていたことを自認していること(原告甲野春子本人尋問調書24項参照)、(二)同原告本人尋問において、同原告は、本件手術が「改造人間」と表現してもおかしくない程度の大がかりな手術であり、手術時間としても八時間程度要するものとの説明を受けたこと(同調書30ないし34項参照)、新鮮血の方が出血が止まりやすいことから、新鮮血を確保するよう要請を受けたこと(同調書40ないし43項参照)、右要請を受けた甲野次郎、原告乙野夏子及び同甲野太郎は、それぞれの勤務先であるD、E、Fに幅広く協力を求めたことから一〇名以上が輸血協力を申し出るに至っていること(同調書44項参照)、手術の内容としては低温下で心臓を一旦停止させて人工心肺を使用するものであると聞いたこと(同調書105ないし107項参照)をそれぞれ自認しているところ、右自認に係る各事実にかんがみれば、本件手術が相当程度高度の危険性をはらんでいるものであることは通常人の観点からも想像に難くないこと、(三)前記前提となる事実6記載のとおり、静岡○○会総合病院の入院診療録平成六年一〇月二日欄には、同病院腎臓内科の乙川四郎医師は原告甲野春子に対し、甲野次郎については、腹部大動脈瘤が増大しており、破裂等を考えると危険な状態であることから、血管造影を施行し、場合によっては、大動脈置換術が必要になるが、原疾患・腎不全の合併等を考慮すれば、かなりの危険があり、持続的腹膜灌流(CAPD)から血液透析(HD)への移行が必要である旨の説明をしたなどと記載されていること、(四)前記前提となる事実11記載のとおり、静岡○○会総合病院の甲野次郎の入院診療録(看護記録部分)平成六年一〇月二一日午後一時一五分の欄には、「丁野医師より妻 本人にムンテラ手術日は一一月八日に決定……右総腸骨Aの閉塞の検討中、今回は腰痛・腹部が痛かった、手術により血液透析になる……、手術より腎キノウは悪くなる可能性は大、感染、出血、危険率は一割、輸血……新鮮血スペンダー(A型)+が四~五人(分)ほしいか」などと記載されており、右記載の「危険率」については足の障害についてのものであるとは付記されていないこと、(五)前記前提となる事実12記載のとおり、静岡○○会総合病院の甲野次郎の入院診療録(看護記録部分)平成六年一一月七日正午の欄には、丁野三郎医師は甲野次郎及び原告甲野春子に対し、同月五日に施行した血管撮影時のカテーテル検査により、縦隔内出血、腫脹が生じていると考えられるが、腎機能障害があり、組織の治癒力が低下しているために、右腫脹が吸収されるまでに三週間くらいかかりそうであり、また、易感染性等の問題がある可能性があり、さらに、今回の手術は人工心肺体外循環を用いる予定であり、その際に抗凝固剤ヘパリンの使用は不可避であるために、出血を起こしやすい状況であると考えられることから、手術は同年一二月六日に延期する旨の説明をしたなどと記載されていること、(六)前記前提となる事実13記載のとおり、甲野次郎はA看護婦に対し、平成六年一一月二八日外泊から帰院した際、「あとはかんおけに入るだけだ」と述べたことにかんがみれば、甲野次郎は本件手術が相当程度高度の死亡の可能性をはらんでいることを自覚していたように推認しうることに照らすと、2記載の原告甲野春子の各供述部分については、同原告の自認している事実関係と整合するものとは評価しがたく、かつ、入院診療録の記載に沿うものとも評価しがたいことから、いずれもにわかには信用することができず、本件一件記録を精査しても、他に、原告らの主張を証明するに足りる的確な証拠は存在しない。

4  右によれば、原告らの主張については採用することができない。

三  丁野三郎医師らの説明と甲野次郎らの理解についての当裁判所の事実認定

1  かえって、原告甲野春子本件尋問において、同原告は、同原告が静岡○○会総合病院に勤務する看護婦らに対し、甲野次郎がこんなに元気であるならば手術はしなくてよいのではないかと質問した際、甲野次郎及び同原告は右看護婦らから、手術しなければ大動脈瘤が破裂する危険性が高いという話を聞いていたことを自認しているところである(原告甲野春子本人尋問調書24項参照)。

2  そして、前記前提となる事実6記載の事実に照らすと、静岡○○会総合病院腎臓内科の乙川四郎医師は原告甲野春子に対し、平成六年一〇月二日、甲野次郎については、腹部大動脈瘤が増大しており、破裂等を考えると危険な状態であることから、血管造影を施行し、場合によっては大動脈置換術が必要になるが、原疾患・腎不全の合併等を考慮すれば、かなりの危険があり、持続的腹膜灌流(CAPD)から血液透析(HD)への移行が必要である旨の説明をしたものと認められる。

3  また、前記前提となる事実11記載の事実に照らすと、静岡○○会総合病院心臓血管外科の丁野三郎医師は甲野次郎及び原告甲野春子に対し、平成六年一〇月二一日午後一時一五分ころ、「右総腸骨Aの閉塞の検討中、今回は腰痛・腹部が痛かった、手術により血液透析になる……、手術より、腎キノウは悪くなる可能性は大、感染、出血、危険率は一割、輸血……新鮮血スペンダー(A型)+が四~五人(分)ほしいか」などと説明したものと認められる。

この点、(一)前記前提となる事実11説載のとおり、静岡○○会総合病院の甲野次郎の入院診療録(看護記録部分)平成六年一〇月二一日午後一時一五分の欄には「危険率」とだけ記載されており、それが足の障害についてのものであるとは付記されておらず、「出血」という文字の横に記載されていること、(二)前記二3の判断のとおり、原告甲野春子本人尋問において、(1)同原告は本件手術が「改造人間」と表現してもおかしくない程度の大がかりな手術であり、手術時間としても八時間程度要するものとの説明を受けたこと、(2)新鮮血の方が出血が止まりやすいことから、新鮮血を確保するよう要請を受けたこと、(3)右要請を受けた甲野次郎、原告乙野夏子及び同甲野太郎は、それぞれの勤務先であるD、E、Fに幅広く協力を求めたことから一〇名以上が輸血協力方を申し出るに至っていること、(4)手術の内容としては低温下で心臓を一旦停止させて人工心肺を使用するものであると聞いたことをそれぞれ自認しているところ、右自認に係る各事実にかんがみれば、本件手術が相当程度高度の危険性をはらんでいるものであることは通常人の観点からも想像に難くないこと、(三)前記前提となる事実13、14記載のとおり、甲野次郎は本件手術施行に先立ち、手術について相当の不安を抱いていたことがうかがわれることに照らすと、右説明における「危険率」については、死亡に至る可能性という趣旨で説明され、また、甲野次郎及び原告甲野春子においては、その旨理解したものと推認するのが相当である。

4  さらに、前記前提となる事実12記載の事実に照らすと、静岡○○会総合病院心臓血管外科の丁野三郎医師は甲野次郎及び原告甲野春子に対し、平成六年一一月七日正午ころ、同月五日に施行した血管撮影時のカテーテル検査により、縦隔内出血、腫脹が生じていると考えられるが、腎機能障害があり、組織の治癒力が低下しているために、右腫脹が吸収されるまでに三週間くらいかかりそうであり、また、易感染性等の問題がある可能性があり、さらに、今回の手術は人工心肺体外循環を用いる予定であり、その際に抗凝固剤ヘパリンの使用は不可避であるために、出血を起こしやすい状況であると考えられることから、手術は一二月六日に延期する旨の説明をしたものと認められる。

5  ところで、被告は、前記1ないし4に認定判断した甲野次郎らの理解や丁野三郎医師らの説明に留まるものではなく、前記争点の被告の主張記載のとおり、同医師は同種の手術に先立つルーティンワークとして詳細な説明を行ったものであると主張し、丁野三郎医師の陳述書(乙三)及び証人丁野三郎の証言中には、右主張に沿う部分が存在する。

この点、甲野次郎及び原告甲野春子に対してなした説明に係る丁野三郎医師の記憶については、右陳述書及び証人丁野三郎の証言をもってしても、同種の手術に先立つルーティンワークとしてなしたはずであるという程度のものに留まり、必ずしも個別具体的かつ明確なものであるとはいいがたいものであるが、右陳述書作成及び右証言が本件手術後五年以上経過した後のものであることに照らすと、理解に難いものではない。

そして、前記二の判断のとおり、原告らの主張を採用することは困難であり、前記1ないし4の認定判断のとおり、日常業務の中で記録された入院診療録(乙一)等の具体的な裏付けを伴って被告の主張に沿う丁野三郎医師らの甲野次郎及び原告甲野春子に対する説明部分が存在するものと認められることを併せ考慮すると、入院診療録(乙一)に記載されている部分を超えて、甲野次郎及び原告甲野春子に対して前記争点の被告の主張記載のとおりの説明を行ったとする丁野三郎医師の陳述書(乙三)及び証人丁野三郎の証言中の各供述部分については、一応の信用性があるものと評価することが合理的であろうと当裁判所は考える。

そうであれば、前記1ないし4に認定判断した丁野三郎医師らの説明や甲野次郎及び原告甲野春子の理解に留まるものではなく、前記争点の被告の主張記載のとおり、丁野三郎医師は甲野次郎及び原告甲野春子に対し、同種の手術に先立つルーティンワークとして詳細な説明を行ったものと認めるのが相当である。

四  右認定事実についての当裁判所の評価

右認定判断に照らすと、丁野三郎医師は甲野次郎及び原告甲野春子に対し、手術の必要性、死亡の可能性を含めた手術の危険性について、具体的な説明を行ったものと評価すべきであり、被告において、診療契約上の説明義務につき不完全履行があったものと評価することはできない。

これに対し、医療関係の民事訴訟事件においては、診療録が最も重要な証拠価値を有するものであることにかんがみると、前記三5の判断とは異なり、前記三1ないし4に認定判断した丁野三郎医師らの説明や甲野次郎らの理解に留まるものではなく、前記争点の被告の主張記載のとおり、同種の手術に先立つルーティンワークとして詳細な説明を行ったとする丁野三郎医師の陳述書(乙三)及び証人丁野三郎の証言中の各供述部分については、入院診療録(乙一)上の具体的な記載を欠くものであり、しかも、同証人の記憶自体必ずしも明確なものとは言い難い以上、にわかには信用することができないとする判断もありうるところではあるが、仮に、そのように判断したとしても、前記三1ないし4の認定判断に照らすと、甲野次郎及び原告甲野春子は手術しない場合の危険性について相応の理解をした状況の下で、丁野三郎医師は甲野次郎及び原告甲野春子に対し、手術の必要性、死亡の可能性を含めた手術の危険性について、甲野次郎が本件手術に承諾するか否かにつき意思決定をなしうる程度には、相応の説明を行ったものと評価すべきであり、被告において、診療契約上のの説明義務につき不完全履行があったものと断ずるには足りない。

なお、付言すると、なるほど、丁野三郎医師は、同医師の証言において、同医師は甲野次郎及び原告甲野春子に対し、前記前提となる事実17記載のとおり、本件のような手術に伴い患者が死亡に至る可能性が一二ないし一三パーセント程度であるとのデータについては、細かくは説明していないことを自認しているものであるが、前記三3の認定判断のとおり、同医師は甲野次郎らに対し、「危険率」は一割と説明し、右「危険率」については、本件手術に伴い死亡に至る可能性という趣旨で説明され、また、甲野次郎らにおいて、その旨理解したものと推認するのが相当であるとすれば、同医師は甲野次郎らに対し、同人が本件手術に承諾するか否かにつき意思決定をなしうる程度には右データの概要を説明したものというべきであることから、右データにつき細かく説明していないことをもって、直ちに、診療契約上の説明義務につき不完全履行があったものと断ずることはできないというべきである。

五  結論

以上によれば、原告らの本訴請求については、前記事案の概要に記載した原告ら主張に係る損害論の適否について精査するまでもなく、いずれも理由がない。

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